黒い服を買った。

祖母はかわいらしい人だ。

小さくて、いつもにこにこ笑ってて、誰にでも人当りがよくて、品がいい。

古い偏見や思い込みをもってはいるけど、それを表に出すことは本当に時々だけ。大陸にいた女学生時代のことを、「ロシアの兵隊さんと踊ったのよ」と、孫に嬉しそうに話すような人だ。

 

祖母が100歳を迎えた時、国や地方自治体からお花やお祝いの品が届いた。

そんな決まりがあるなんて知らなかったものだから、母と私は驚いて、はしゃいで、祖母にすごいねすごいねー、長生きしたからだねと笑顔で話しかけた。もう祖母の言語感覚は曖昧になっていて、どれくらい状況が伝わっていたか分からないけど、それでも嬉しそうに「ほんとう? すごいの?」と微笑んでいた。

 

祖母の食事量が減った直接のきっかけは、入れ歯がなくなったことにある気がしている。

ある日、夕食を運んだら、祖母がしょんぼり萎れているように見えた。聞けば入れ歯は母がもっていったきりで何日も見ていないという。

もちろんそんな事実はない。その日の朝は入れ歯をしていて、しっかり食事をとっていたのを私は見ている。母が入れ歯を洗浄して戻したのを、戻したことだけ忘れた、くらいの話だと思う。

けれどなくなった入れ歯は出てこなかった。布団を一旦めくらせてもらっても見当たらないし、祖母のベッドの下を覗いても、あるのは小さなホコリと消臭剤だけだ。

代わりの入れ歯は一応用意があったが、それは祖母にとってきちんと合うものではないらしく、すぐに自分で外してしまう。

もう100歳。ただお医者さんに行くだけでも一苦労だ。今さら新しくあった入れ歯が作れるとは思えない。そのままだましだましやっていくしかないというのが私と母の結論だった。

それ以降、祖母は食事を一口ほどしか食べなくなった。

祖母の食事をペーストにしたり切り刻んだりして工夫したが、あまり効果はあがらなかった。たぶん咀嚼も嚥下もしんどく思うようになったのだろう。

かろうじて、医者さんから出してもらえた栄養ジュースはおいしいおいしいと飲んでくれた。これならきっともうしばらく生きてくれるだろうと、私と母は胸をなでおろした。

 

ある日、祖母が夜中に大声を出すようになった。

「ばーか。ばあああああか」と誰もいない暗い室内で叫ぶのだ。怒鳴り声というよりは、獣の咆哮のような感情のこもらない声だった。

最初は本当に驚いて、飛び起きて祖母に声をかけたりした。声をかけると、「だいじょうぶよー」とにこにこする。それで安心して私が祖母の部屋を出ると、また同じように叫びだす。

これが夜中2時頃から朝方5時まで続いた。

少し検索したら、これは痴呆の症状で、レム睡眠時に悪夢を見ているせいだろうとの解説が見つかった。対処法も静かに見守るくらいしかないようだ。

それなら仕方ないと納得はしたが、削られる睡眠時間はいかんともしようがなかった。

翌日も祖母の大声は続いた。声にする内容はバリエーションがつき、罵倒以外にも「おかーさん、おとーさん、どこにいるの?」「私はここよ」と子供のように叫ぶこともあった。こどものころの夢を見たのだろう。

ときどき「痛い」と叫ぶことがあったので、そのときだけ祖母の部屋に顔を出した。足がベッドの柵にあたって痛いと感じることがあるようだ。

柵から足を遠ざけクッションを間にいれなおし、かけ布団をかけなおして、おやすみーと笑顔を向けあう。部屋を出たらまた叫ぶ。

この日はその繰り返しが、12時頃から朝方4時まで続いた。

 

隣の部屋を寝室としていた私が根をあげたのは三日目だった。

母に相談し、いちばん遠い玄関側の部屋にふとんをしいて、そこで寝るようになった。

厚い壁のおかげで祖母の声はほとんど聞こえなくなった。足痛くないかなと祖母の足を少し心配したが、自分の睡眠を優先した。

 

その翌日から、祖母との会話がほとんど成立しなくなった。

私が仕事に出ている昼の間も獣のような絶叫をしているらしい。母が一日それに振り回されたようで、私の帰宅後には疲れ切った顔をしていた。

叫ばないでとお願いすると「わかったー」と言ってくれるのだけど、すぐ忘れてしまうらしい。

夜の絶叫は厚い壁を越えて聞こえるようになった。母はこのままでは安定剤を飲まないと眠れないとこぼした。

 

私たちは、お医者さんに、祖母をどこかきちんとした施設に預けられないか相談することにした。

 

 

 

もうすっかり慣れていた祖母と母との三人暮らしは、そう遠くない先に終わってしまうのだろう。

病院から帰ってきた今、私は洋服掛けに下げた黒い服を見て動けなくなった。